マリアニエベス校長 のご紹介タンゴの母 かく語りき

1950年代から半世紀にわたり、アルゼンチンにおいて「タンゴの母」と呼ばれ続けてきたMaria Nieves(マリア・ニエベス)。
「より自由に、より情熱的に!」タンゴの神髄を伝え続けてきたマリアの志を日本にも伝搬すべく、2000年6月9日、四ッ谷にマリア・ニエベスのタンゴスクールがオープンいたしました。教授するインストラクターは、Marión(マリオン)とjulián(フリアン)、ブエノスアイレスでマリアに師事し、以来、現地で直接レッスンを受け続けてきた愛弟子がお相手いたします。
「タンゴの素晴らしさを、日本の皆さんに伝えて」師マリアの熱意と信頼に応えるべく、2人の母国・日本に本場のタンゴの伝統&パッションを伝える所存でおります。

長年のパートナーであるファン・カルロス・コペスとともに情熱的なタンゴ・シーンを展開し、アルゼンチンのタンゴ界に多大な影響を与えた。通称「タンゴの母」。その功績は枚挙にいとまないが、タンゴ・ダンサーとして唯一レーガン大統領の誕生パーティーに招待されるなど、その名声はアルゼンチン国内だけでなく世界的にも広く知られている。

時代背景

私の幼少期、1930年代のアルゼンチンでは、タンゴが大変なブームを呼んでいました。
その頃はまだテレビが普及しておらず、ラジオから頻繁に流れるタンゴの音律は、人々の心へ直接浸透していったのです。当時の人々はタンゴ教室などへは通わず、サロンへ行っては上手な人の足型や技を盗み、学び、そうして人から人へとダンスは伝わっていきました、現代の若者がディスコやクラブに行くようにその時代の人々はミロンガ(タンゴサロン)へ足を運び長い夜を楽しんでいたのです。

タンゴとの出会い

私もそのうちのひとりでした。はじめは姉に連れられて行っただけで、すぐに踊り始めたわけではないのですが、8、9歳の頃だったと思います。
姉は当時、私が幼すぎるという理由から、絶対に踊ることを許してくれませんでした。私はただただひたすら他の人の踊りを観ることしかできず、「早く大きくなりたい、早く大人になりたい!」という憧れがそのまま、タンゴへの気持ちにつながっていきました。

タンゴへの目覚め

11、12歳の頃になると今まで目に焼き付けてきたステップを少しずつ実際に使い始めました。サロンはいつも混雑しているので、それをいいことに姉から離れた反対側の端へ行き、ダンスに誘われるのを待っていました。はじめは姉 友達が声をかけてくれて、お互いに足を踏んだり踏まれたりしながら踊ったものです(笑)。
曲が終わる少し前にテーブルに急いで帰り、踏まれてついた靴の汚れを急いで拭き取り、知らん顔して踊りを終えた姉を迎えたりして・・・!
こうして私のダンスがはじまったのです。

コペスとの出会い

13,14歳の頃は、もう姉の前でも堂々と踊るようになりました。そんな頃出合ったのがカルロス・コペスです。時間が経つにつれて、私たちは恋に落ち、タンゴへの情熱もどんどん深まるばかり!
『「二人」が踊るのではなく、一心同体になって踊る』ことを常に心がけ、ステップのバリエーションも徐々に増やしていったのです。その時代には、もちろん素晴らしいダンサーが数多くおり、技術レベルも高かったですよ。でも私たちは、彼らを見ても何か物足りない感を受けていたのです。それはエレガンス(elegancia)。そしてそれこそが、基本として大切にしてきた私たちのスタイルです。

タンゴ活動

町ではタンゴ・.ダンスの大会が頻繁に開催されるようになり、私たちも何度も出場権を獲得しました。残念ながら、当時は一度も優勝することはできませんでしたが、毎回観客を沸かせ、引き込む力があると評価されて、エクシビジョンなどに呼ばれるようになったのです。こうなったら、ただ踊るだけではすみません。ステージへの入り方、立ち方、挨拶の仕方まで研究し、経験や努力のみによってそれらを身につけてきました。ブエノスでの有名な劇場での公演にも出場するようになり、タンゴの踊りを、アルゼンチンから世界に向けて発信するのにも貢献できたのでは、と思っています。そんな中、1963〜64年頃、私たちはラスベガスにて挙式をし、その時からタンゴのペアのみならず人生の良きパートナーとして、長きの時をともに歩んできました。

その後

1999年11月から2000年1月上旬まで、ニューヨーク・ブロードウェイでのシリーズ公演『タンゴ・アルヘンティーノ』は、大盛況のうちに幕を閉じました。
「1900年代の締めくくりとして、Mariay Copez(マリアとコペス)の不在はありえない」という主催者側たっての希望で出場したのですが、ペア解消後はこの時を除いて彼には会っていません。
最後に、1934年9月6日に生まれたマリア・ニエベスは、自分はタンゴの一部であり、タンゴは自分の一部であると感じています。